父が胃がんになった。
ステージ1。
リンパへの転移はなかった。
がんになる前の父は、肺気腫や糖尿病を抱えてはいたけれど、比較的元気だった。
一人暮らしで、自分のことは自分でできていた。
だから、がんが見つかったときも、私は「治療すれば、また元気になる」と思っていた。
そして治療を受けた。
ところが、その後の父は、元気になるどころか、どんどん弱っていった。
食べられない。
動けない。
体重が落ちて、見るからに痩せていく。
今は入院していて、医師からは「回復の見込みはない」と言われている。
そんな父を見ながら、私はずっと考えている。
「あのとき、別の選択肢はなかったんだろうか」
もっと調べればよかった。
セカンドオピニオンを受ければよかった。
もちろん、今さら何を言っても「たられば」だ。
そのときは、そのときで、父に生きてほしくて、治ってほしくて、良かれと思って選んだ。
だからこそ、今の父を見ていると、後悔が残る。
もし、がんを抱えたままだったとしても。
貧血になったとしても。
少し寿命が短くなったとしても。
自分で歩いて、自分で食べて、自分のことは自分でできる。
そんな時間を、最後まで残してあげることはできなかったのかな、と。
私が今いちばん思っているのは、
「寿命が短くなったとしても、最後まで人間らしく、自分らしく生きられる時間を残してあげたかった」
ということ。
長く生きることが、必ずしも幸せとは限らない。
何年長く生きられるかだけではなく、
その何年を、どんな状態で生きるのか。
自分で食べられるのか。
自分の足で歩けるのか。
好きな人と話せるのか。
自分で「今日はこれをしたい」と決められるのか。
私は、今回の父のことで、そのことをものすごく考えるようになった。
私自身、もし80歳を過ぎてがんになったら、積極的な治療はしないと思う。
少し寿命が短くなったとしても、できるだけ自分で動いて、自分のことは自分でできる状態でいたい。
Netflixのドラマ『ダウンタイム』に、末期がんで余命わずかな75歳の女性が登場する。
彼女が最後に望んだのは、全身の美容整形だった。
「もうすぐ死ぬのに、そこまで?」と思う人もいるかもしれない。
でも、父のことを考えていた私は、なんとなくこの女性の気持ちがわかる気がした。
彼女にとっては、「美しくあること」が最後まで自分らしくいることだったんじゃないだろうか。
父にとっては、自分で食べること、自分で歩くこと、自分のことを自分ですること。
私にとっては、たぶん「自分で決められること」。
最後まで何を大切にしたいのかは、人によって違う。
だから、「延命するか、しないか」という二択だけではなくて、その前に「自分にとって、最後まで残しておきたいものは何なのか」を考えておくことが大事なんじゃないかと思う。
積極的に治すことだけを目指すのではなく、
できるだけ自分らしく過ごせることを優先したい。
治療しない、ということを「諦めること」だとは思わない。
自分がどう生きたいかを選ぶことだと思う。
そして、その選択は、元気なうちに家族に伝えておきたい。
「もし私がそうなったら、こうしてほしい」
それを言葉にしておくことも、終活のひとつなんじゃないだろうか。
終活というと、遺言や相続、葬儀、お墓のことを思い浮かべる。
でも、本当はその前に、「自分は最後まで、どう生きたいのか」を考えておくことも大事なんだと思う。
今回、父のことで後悔しているからこそ、私はそう思う。
あのときの私は、ただ「生きてほしい」と思った。
今の私は、
「長く生きてほしい」だけじゃなく、「最後まで自分らしく生きてほしい」と思っている。
そして、自分自身にもそうありたいと思う。